2022年10月31日

父と原爆

ひろぽん さん


 ロシアとウクライナの紛争はいつ終わるのか、まして小型核兵器使用の可能性まで取りざたされると、重苦しい気持ちが続いてしまうこの頃だ。心せかれるままに新しくなった広島平和記念資料館に行き、あらためて原爆被害の恐ろしさを見てきた。

図1.jpg
 広島は父の生まれたところ。その後、父は大阪、四国と転校し中国電力(当時は中国配電といったらしい)で働いているとき原爆が落とされた。筆まめな弟のブログ(https://blog.goo.ne.jp/nobrinsanjps/e/17fca1703c275e463cefbfa0c3829754)から一部を勝手に引用すると・・・・


昭和20年の8月6日
広島の電力会社に勤めていた私の父は
山奥の変電所へ保守のために
列車で出かけることになりました

広島駅を出た列車が廿日市を過ぎた頃
車窓から閃光を見たのです
原爆でした

同僚に代わって出張したことで
幸運にも被爆をまぬがれた父でした

勤めていた電力会社は広島市の中心部にあり
当然父の同僚たちは一瞬にして蒸発したか
黒焦げになってしまったことでしょう

入ることを禁じられていた市内に
何日後かに戻った時に父が見たものは何だったのか?
快活で外交的な父でしたが
心の底には消えない景色があったのかもしれません
(以上弟のブログから抜粋)


 おそらく父の葬儀の時に叔母から聞いた話らしいが、実は、父が変電所に出張したのは8月5日、原爆投下の前夜なのだ。
 徴兵検査で丙種合格という虚弱体質にもかかわらず、向こうっ気だけは強かった父は、住んでいた会社の寮で大勢とケンカし袋叩きにあい、夜のうちに寮を出ていったというのが、真相だ。父も妹には言えなかったのだろう。

 その朝、ふんどしひとつで電柱に登り、変圧器の修理をしていたときにピカッと光った。連絡が取れなくなった本社に所長が行ったきりもどらない。つぎは副所長。えらい順に人がいなくなり、とうとう父が市内にでかけ、惨状を目にしたのだ。

 本社はコンクリートの骨組みだけになっていて、そこに寝泊まりしながら、復旧の手伝いをしたり、被災者の看護をし、炊き出しをもらって命をつないだそうだ。

 父を袋叩きにした同僚たちはみな生きてはいなかっただろう。皮肉なことだが、そのおかげで父は命拾いし81歳まで生きた。

図2.jpg
 新しくなった平和記念資料館には、あの、焼けただれて皮膚が垂れ下がった両手を突き出した被爆者を再現した人形はもういない。残念な気もするが、大伸ばしの写真やハイテク機器を駆使した展示は洗練され、わかりやすくなった。

 やはり核兵器は絶対に使ってはならない。

 広島平和記念資料館はなんと入場料200円というお値打ち価格。広島駅から路面電車で「原爆ドーム前」から行くのがお勧めでSUICAもPASMOも使えます。

次は、シカゴ さんにお願いします。
posted by 練馬ぱそぼらん at 09:56| 会員紹介